2016年1月4日月曜日

「国際社会において日本人であるとはどういうことか?」

初めまして

コロンビア大学大学院の博士課程に所属している、内田貴也と申します。ニューヨークのウォール街から地下鉄で45分程のところにあるキャンパスで海洋物理学を専攻しており、海流や乱流現象、及び大気と海洋が互いにどのように影響を及ぼし合うのかに関する研究をしています。

マンハッタンはアメリカの中でも最もと言っていいほどリベラル (自己と他者の自由を尊重する) な街として知られており、日常的に様々な人種や文化・宗教的背景を持った人と関わる機会があります。特に、私が住んでいる学生寮は留学生が住人の70%を占めており、中東や西欧諸国等、世界中から来た学生と議論に花を咲かせることがしばしばあります。

夕焼け時の自由の女神 

さて、学部生時代は工学部に所属し、とバリバリの理系畑出身である私がなぜ自分の専攻からは縁遠い「日本の政治」に関心を持ったのか?また、国際社会の中で“日本人”であるとはどういうことなのか? ということについて今日は個人的な見解をお話したいと思います。それはひとえに、私が日本国籍を有しており、日本が民主主義国家である以上は、日本国の行いに私、及び日本国籍を有するあらゆる個人も一定の責任を負う、少なくとも国際社会からは否が応でもそう見なされるからです。内田樹氏の定義を引用するならば、

“民主制とは何か「よいこと」を効率的に適切に実現するための制度ではない。そうではなく、「わるいこと」が起きた後に、国民たちが「この災厄を引き起こすような政策決定に自分は関与していない。だから、その責任を取る立場にもない」というようなことを言えないようにするための仕組みである。政策を決定したのは国民の総意であった。それゆえ国民はその成功の果実を享受する権利があり、同時にその失政の責務を支払う義務がある”—『日本の反知性主義』内田樹編

先に断っておきますが、私は、安倍晋三首相や日本会議、及びネトウヨが“美しい国”や“愛国心”などと呼ぶ価値観(以下、「国粋主義」と呼ぶ)を私は全く持ち合わせていません。国旗を掲揚する気はありませんし、国歌を斉唱する必要性も感じていません。日本版ナショナリズムの象徴となりつつある特攻隊にも感謝はしていません。特攻隊出撃に限って私見を述べれば、特攻隊とは敗戦が決定的な中においても大本営、及び昭和天皇が終戦の決断を出来なかったが故の「国家に強制された」自己犠牲、及び徹頭徹尾無駄死にであり、国権の暴走による被害者です。であるが故に、特攻隊を美化することは実際に命を散らした方々に大変失礼になると考えます。特攻で亡くなった方を弔う為には、過去に権力の暴走を許したことを真摯に反省し、二度と国家の為に死ぬことを若者に強要する事態を招かない。このことを誓う以外にあり得ないわけです。

本来、愛国心とは国家権力の象徴(国旗・国歌)に敬礼することではありませんし、ましてや自国の優位性を他国に対して誇示するものでもありません。日本文化が中国・韓国の文化よりも優っているということではないですし、逆に西欧文化が日本文化よりも優れているということでもありません。強いて愛国心を個人的に定義するならば、“「生きやすさ」をその国に感じるかどうか”ではないでしょうか。自然風景や職人芸、食べ物など具体的に日本国内において心惹かれるものは多々ありますが、“社会に可能性が満ちあふれ、努力に見合う結果を手にすることができる。”そのような国であれば、おのずとその国に対する愛着が湧いてくるはずです。愛国心とはひとりひとりの心の内から自然発生してこそ意味のあるものであり、国旗・国歌に敬意を払うべきだ、と上から植え付けられるものでは決してありません。逆に言えば、国民の中に愛国心か、自然発生させるだけの魅力ある国づくりができない国家が、“愛国心”(国粋主義)の押し付けに走るのではないでしょうか。

話が逸れてしまいましたが、私が日本の政治に関心を持っているのは、国粋主義からではなく、日本政府の行為に対し、国際社会の中で私も責任を負うからです。そのため、日本が第二次世界大戦中に行った侵略の事実(南京大虐殺や従軍慰安婦)に個人として責任を感じるとともに、安倍政権が推し進めようとしている全体主義、及びファシズムにより再び国際社会に迷惑をかけたら申し訳ない、という気持ちが動機になっています。

日本の政治から逃げるのではなく、民主制に伴う責任に皆さんも毅然と向き合ってみませんか?日本はもっともっと良くなるポテンシャルを秘めています!



貴也

0 件のコメント:

コメントを投稿